和光小学校を卒業した子どもたちがその後どのような道を歩んでいるのか。
和光学園で育つ子どもたちの姿を対談形式でご紹介します。
和光小学校→和光中学校→和光高校→東京女子医科大学看護学部→看護師
「昨日は夜勤明けでした」
そう穏やかに語ってくれた塚原さんは、現在、看護師としてER(救急外来)の現場に立っています。
まさに命と向き合う最前線で、日々多くの患者さんと向き合いながら働いています。
中学生の頃から「人と関わる仕事をしたい」と漠然と考え始めた塚原さん。
野球部のマネージャーをしていた経験もその想いを後押しし、看護の道へ進むことを決めました。
看護師として働くなかで、やりがいとともに葛藤も感じています。
たとえば、患者さん一人ひとりと丁寧に向き合いたいと思っていても、現場では複数の患者さんを同時に担当することも多く、思うように時間がとれないこともあるそうです。
「最初の頃は、1対1でじっくりコミュニケーションが取れていたんです。
でも、担当が増えてくると、どうしても時間に追われてしまって…」
と話す表情には、患者さんとしっかり関わりたいという想いがにじんでいました。
大学時代、勉強面でも大きな壁にぶつかったといいます。
「看護学部には本当に勉強熱心な人が多くて、最初の1年はついていくのが大変でした」
また、先生との距離感にも驚いたそうです。
「和光では、分からないことがあれば気軽に先生に聞けたけれど、大学では少し“壁”のようなものを感じました」と振り返ります。
それでも、塚原さんはぶれることなく、自分らしさを大切にしながら歩んできました。
その背景には、和光で育まれた価値観があります。
「和光での経験があったからこそ、“人を偏見なく見ること”が自然にできるんだと思います」
たとえば、大学や職場で少し個性的な人と出会っても、引くことなく、当たり前のように関わることができる。
そうした姿勢は、和光で日常的に多様性に触れながら過ごしてきたからこそ育まれた力だと語ってくれました。
最後に、今の和光の子どもたちや保護者の方へのメッセージを伺うと、こんな言葉が返ってきました。
「いろいろなことに、恥ずかしがらずに挑戦してほしい」
小学生時代はおとなしく、自分の想いを多く語るタイプではなかったという塚原さん。そんな彼女が、いま、自分の言葉で人生を切り拓いている姿に、当時の担任だった増田先生も「驚くと同時にとても嬉しかった」と語っていました。
現在アメリカのUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で社会学を学ぶ山岡さん。
久しぶりの一時帰国中、当時高学年を担任した副校長・増田との再会をきっかけに、学生生活やこれまでの歩みを語ってくれました。
和光幼稚園から高校までを通して和光学園で育ち、小学校時代には一時的に中国での生活も経験した山岡さん。
その後、アメリカの短大を経て、現在はUCLAに在籍中です。
「もともと社会が好きだったんです。
自分の身の回りで起きていることを“研究”として扱えるところが社会学の面白さだなと思って」
日常にある疑問を深掘りしたいという知的好奇心から、社会学を専攻。
アメリカの大学へ進学した背景には、こんな思いもありました。
「幼稚園から高校まで和光だったので、『このままでいいのかな?』っていう気持ちがあったんです。
あえて自分を追い込む環境に行ってみたくて」
慣れ親しんだ環境を一度離れ、自ら新しい世界に飛び込んだその決断には、和光で培われた“自ら考え、行動する力”が確かにありました。
「“日本のあたり前”がまったく通じないんです。
たとえば、察するとか、空気を読むとか…。アメリカでは、自分の意見をはっきり言わないと伝わらない。
誰かが発言していないからって、話を振ってくれることもないんです」
国を超えた環境で気づいたのは、文化の違いでした。それでも、彼女は語ります。
「たどたどしくても、“伝えよう”という意志があれば大丈夫。
アメリカは移民の多い国だから、英語がうまい・下手なんて、誰も気にしてないんです」
言語の壁よりも、自分の想いを伝える姿勢こそが重要だと、身をもって実感しています。
海外での学びと生活のなかで、山岡さんは改めて「和光で育ったこと」を実感したといいます。
「和光は、自分の意見を発言することが大切にされる環境でした。
もし、“いい大学に行くことが正解”みたいな雰囲気の学校に通っていたら、海外なんて考えられなかったと思います。
和光だからこそ、一歩を踏み出せた」
授業で沈黙を破って意見を出すこと、興味を深掘りすることが自然と身についていたからこそ、異国の地でも自分の言葉で発信できているのだと、笑顔で語ってくれました。
最後に、今の和光の子どもたちへのメッセージを尋ねると、こんな言葉が返ってきました。
「興味のあることには、どんどんチャレンジしてほしい。
失敗は悪いことじゃないし、むしろそれを経験するからこそ、前に進めることもある」
最初は少し照れくさそうに話し始めた山岡さんでしたが、アメリカでの生活や社会学の話になると、その表情は真剣で力強く、未来を切り開く姿に頼もしさを感じました。
「親は海外進学に反対だったんです」と笑いながら話す彼女。
でもその心配をよそに、山岡さんは自分の意志で選んだ道を、確かな足取りで歩んでいます。
「また帰国したときに、和光に寄りますね」
そう言って手を振る彼女の背中に、和光で育まれた“自由と対話の力”が確かに宿っていると感じました。
和光幼稚園→和光小学校→和光中学校→和光高等学校→横浜薬科大学→薬剤師
高校3年間、大学でサッカーに取り組む
現在、薬剤師として働いている小池さん。
久しぶりの再会となった副校長・増田との対話では、穏やかな語り口のなかに、自分の道をしっかり歩んできた芯の強さが感じられました。
「中学3年生のころには、すでに薬剤師を目指していました」
そう語る小池さんは、理科(特に生物と化学)が得意だったことが大きな理由のひとつだったといいます。
そしてもうひとつ、自分の“向き・不向き”を冷静に見つめて出した判断もありました。
「和光には“コミュ力おばけ”みたいな人たちがたくさんいて(笑)、
自分はそこでは勝てないなって思ったんです。
だったら、資格を取って専門職でやっていこうと。
医者はさすがに学力的に厳しいと思ったので、薬剤師を目指すことにしました」
早くから進路を定め、高校では薬学部への進学に必要な科目を多く選択。
自ら道を切り拓く姿勢が、すでにこの頃から見えていたそうです。
「大学1年生のとき、教養科目の数学が厳しかったですね。
でも、提出物などでなんとかカバーしました。2年生から薬学の専門に入ってからは、理科は好きなので大丈夫でした」
得意を活かし、苦手を工夫で補いながら進んできた大学生活。
薬学部は6年制で、国家試験の合格率も決して高くはありませんが、小池さんは留年もせず、着実に進んでいるといいます。
「100人入って、ストレートで国家試験に合格するのは2割ほど。
でも和光の卒業生は、ほとんどが留年していないんです。
“腹をくくって決めた道”なら、苦にならない。強いなって思います」
「和光で育ったことで、“しゃべる力”が身についたと思います。
今の仕事でも、薬を渡すときに患者さんと確認したり、話す場面が多いんです」
大学でも、実習や授業でのディスカッションや発表の場面では、周囲が緊張するなかでも、自分は平気だったと振り返ります。
「知識量が同じでも、捉え方や表現の仕方が違うって先生に驚かれたこともありました。
“人前で話すこと”は和光の中で自然にやってきたので、外に出てからも全然怖くなかったです」
他校の卒業生も交えるなかで、和光の経験が確かな土台になっていることを実感しているそうです。
印象に残っている和光での出来事を尋ねると、「いちょうまつりの踊り!」と即答。
部活動も熱心に取り組んでいたことが、今でも大切な記憶として残っているそうです。
そんな小池さんから、今の和光の子どもたちへメッセージもいただきました。
「和光は“学力が弱い”なんて言われることもあるけれど、卒業生はちゃんと、自分で選んだ道を進んでいます。
思ったより苦労してないし、実際に“和光出身者は留年しない”というのは、自分でもすごいなと思います。
自分の進む道を、自分で決めてほしい。腹をくくれば、意外と人は強いんです」
柔らかく謙遜しながらも、しっかりと歩んできた道を語ってくれた小池さん。
「漢字は今でも苦手」と笑っていましたが、その言葉の奥には、自分をよく知り、自分で選んだ道を貫く誠実さがありました
和光小学校→和光中学校→和光高等学校→日本歯科大学→歯科技工士
現在、歯科技工士として働く笹部さん。
繊細な技術を求められるこの専門職の道を選んだ背景には、「自分の“好き”を大切にしたい」という想いがありました。
久しぶりに母校を訪れた笹部さんは、副校長の増田先生との再会を通して、和光での思い出や進路選択の理由、今の仕事につながる“原点”について語ってくれました。
「高校2年生の頃には、もう歯科技工士になろうと決めていました」
そう語る笹部さん。
理科の中でも生物や化学が得意だったこと、そしてもともと“細かい作業が好き”だったことが、この道を選ぶ大きな理由になりました。
また、「一般的な就職活動は、自分には合っていない気がした」と振り返ります。
高校時代には、進路に必要な授業を自主的に多く履修し、早くから将来に向けて準備を始めていたそうです。
「小学校の5年生の合宿で、お母さんと離れるのがさみしくて出発のときに泣いたんです。
でも6年生のときにはもう泣いていませんでした。なんでだろう、自然と成長していたのかな」
そう笑って語る笹部さんにとって、和光小学校の「いちょうまつり」や「七頭舞」は特に思い出深い行事でした。
中学校に進んでからは、水泳合宿(館山)のレク総務や、秋田学習旅行の実行委員も務めました。
人前で話すことにも物怖じせず、立会演説会にも挑戦したそうです。
「中学校が一番楽しかったです。卒業後も、館山のコーチとして関わりました。
行事を通じたつながりって、和光ならではのものだと思います」
日本歯科大学では、専門的な座学と実習が多く、日々忙しく学んでいた笹部さん。
放課後はすぐに帰宅し、趣味の阿波踊りやゴルフに取り組んでいたそうです。
「大学で驚いたのは、和光の“当たり前”が他では当たり前じゃなかったこと。
制服がなかった話や、体育祭の自由な雰囲気、髪型やピアスの話をすると、まわりの人がすごく驚くんです(笑)」
また、名字で呼ばれることに慣れていなかったため、「“笹部さん”って呼ばれたときに、誰のこと?って思った」と話す場面も。
勉強面では、「再試になるとお金がかかるので、ならないように頑張っていました」とのこと。
技術の授業で“細かい作業が好き”だと気づいた経験が、今の職業に確かにつながっていると話してくれました。
「小学校から変わらず仲の良い友だちがいて、いまでもつながっています」
和光で育まれた人との関係性は、大人になった今も大切な財産だといいます。
最後に、今の和光生たちへ、こんなメッセージをくれました。
「和光には楽しい行事が本当にたくさんあります。全力で楽しんで、思い出に残る時間をたくさんつくってほしいです。
卒業してからも、合宿の指導員や館山のコーチとして関われるのは、他の学校では味わえない経験だと思います」
和光幼稚園→和光小学校→和光中学校→和光高等学校→イギリス ギルドホール音楽演劇学校クラシックピアノ専攻→ピアノ講師
現在、イギリスの音楽大学でクラシック音楽を学んでいる谷崎さん。
ピアノとともに歩むその日々は、決して平坦ではなかったものの、「好きなことに夢中になれた」和光での経験が、確かな土台になっていると語ります。
母校を訪れ、副校長・増田先生との対話を通して、その歩みと成長を振り返ってくれました。
「音大に行くなら、海外に行きなさい」
高校時代、日本の先生からそう勧められたことがきっかけでした。
クラシック音楽の本場に触れるべく、高校時代からアメリカとイギリスのサマースクールに参加。
そのなかで「イギリスの雰囲気の方が自分に合っている」と感じ、留学を決意しました。
「実技試験には受かっていたんですが、英語の語学試験に受からず、2年目でようやく入学できたんです」
決して順風満帆な道ではありませんでしたが、それでもあきらめることなく、自分の足で進み続けました。
「周りの学生はほとんど英語を話せる環境で、最初は正直とても不安でした」
1学年の専攻人数は10名ほどという少人数制の学校。
だからこそ、丁寧なサポートもあり、谷崎さんは思い切って“ある宣言”をします。
「“私はしゃべれません!”って、最初にちゃんと伝えたんです(笑)」
その一言がきっかけで、先生や友人たちは彼女に寄り添い、時間をかけてサポートしてくれるようになりました。
「もし“わかったふり”をしていたら、きっと授業についていけなかったと思います」
この話を聞いた増田先生がふと語り出したのは、小学校5年生の思い出。
クラス代表として夏休みの研究を発表することになった谷崎さんが、人前に立つ恥ずかしさから思わず涙を流してしまったことがあったのだそうです。
そんな彼女が、異国の地で「私は話せません!」と自分をさらけ出す──その成長に、増田先生も驚きを隠せませんでした。
「小学校の合宿が一番楽しかったかも。特に5・6年生のみずがきキャンプが印象に残っています。
ごはんを炊くのに失敗して“こんなの食べられない!”ってなったの、覚えてます(笑)」
そう語る谷崎さんにとって、和光での日々は“思い出”だけではなく、“価値観”としても今につながっています。
「どんな人を見ても驚かないし、“普通はこうでしょ?”みたいな思い込みがない。
やりたいことに夢中になっていいんだっていう感覚が、和光には自然にあった気がします」
海外での生活で苦労したことのひとつが、「ゼロから人間関係を築くこと」。
「和光では、何も言わなくても自分のことを理解してくれる友だちがいたんだって、あとから気づきました。
でも今は、音楽を通して出会った人たちとの関係も楽しい。
話題がガラッと変わって、“ちがう楽しさ”があるんです」
最後に、今の和光生たちへのメッセージをお願いすると、こんな言葉が返ってきました。
「いずれやめちゃうことだとしても、今“これが好き!”“がんばろう!”と思ったことは、そのまま信じてがんばってほしい。
その気持ちは、ちゃんと意味があるから」
自分の“好き”を信じ抜いた谷崎さんだからこそ、胸に響くメッセージです。
「今度、ピアノの演奏を聴かせてね」
そう声をかけた増田先生に、照れ笑いを浮かべながらうなずいた谷崎さんの姿には、和光で育まれた“自分らしさ”と、海外で培った“しなやかさ”が静かに宿っていました。
和光幼稚園→和光小学校→和光中学校→和光高等学校→法政大学法学部→テレビ番組制作
現在、テレビ番組の制作に携わる田邊さん。
特集の企画、取材、編集など、多くの人と連携しながら1本の番組を作り上げる日々を送っています。
「大変なことは多いけれど、好きなことをやれているから幸せです」
そう穏やかに語るその背景には、和光学園で過ごした時間がしっかりと根を張っていました。
進学先に法学部を選んだ理由は、高校で受講していた「沖縄の基地問題研究」の授業がきっかけでした。
「その時“スラップ訴訟”の話が話題になっていて。社会の仕組みを知ることって、自分を守ることにもつながるんだなって思ったんです」
大学では法律を学ぶ一方、友だちづくりに苦戦したことも。
「和光の友だちは兄弟みたいな存在だったから、最初は大学を“授業を受ける場所”としか思えなかった」と語ります。
英語のクラス分けでは下位クラスに入り、焦りもあったものの、文章を書くことには自信を持てるようになったのはこの頃。
「感想文が授業でよく取り上げられたり、レポートも自然に書けた。
今振り返っても、法律は退屈じゃなかった。誰にでも関わることだからこそ、面白かったです」
現在の仕事はテレビ番組制作。取材から編集までを担う立場です。
就職活動の時から「マスコミしか考えていなかった」と話します。
「父方の親戚にテレビ関係の仕事をしている人が多く、マスコミという仕事がとても身近だったんです。
小さい頃からテレビや出版が好きで、それ以外が思いつかなかった(笑)」
表に出るアナウンサーではなく、番組を“つくる”側を選んだのも、自分の興味に素直だったから。
「自分が好きな番組はどう作られているのか、どんな人が関わっているのか、ものづくりのプロセスに惹かれたんです」
印象に残っているのは、中学時代の沖縄学習旅行。
3日目の夜、学級集会で「昔に比べて今って平和になっているのかな?」という議題の中、勇気を出してこう発言しました。
「こういうことが“話せる”こと自体が、平和なんじゃないかな?」
その言葉は後日、通信に掲載され、「言ってよかったんだ」と感じたそうです。
「それが、“自分の意見を伝えること”の成功体験になって、中高では自然と発言するタイプになっていきました」
和光での学びは、社会に出た今も彼女の軸になっています。
「テレビって、誰かに“届ける”ためにある。だから、ことばを大切にできる今の仕事が好きなんです」
大学受験では英語に苦戦し、就職試験では筆記で落ちた経験も。
「勉強って、できると選択肢が広がるんですよね。だから、学力ってやっぱり大切だなとは思います」
それでも、「それだけじゃない」と断言するのが、田邊さんらしさです。
「和光で過ごしたことで、“内面をじっくり育てる時間”がたくさんありました。
それが今の自分らしさや、個性につながっていると思う。
競争ってキリがない。
でも、私には“人を蹴落とそうとしないこと”が良さだよって言ってくれた人がいました。それが嬉しかったです」
「とにかく、思いきり楽しんでほしいです」
「大人を信頼できる環境で育つって、実はすごいことなんだと思います。
和光の外に出て初めて、“先生に嫌悪感がある”という人が多いことに驚きました。
でも和光では、先生と安心して関われる。そんな環境にいることを、めいっぱい楽しんでください!」
「親になったことがないので偉そうなことは言えませんが…」
「私の両親は、“どうしたいか”をいつも尊重してくれる人たちでした。
『こうしなさい』と言われたことはほとんどなくて。
自分で考えて、選ぶ練習をたくさんさせてもらえたことに、今はとても感謝しています」
今では「頑固すぎる!」と親から苦笑されることもあるそうですが、それはきっと、“自分の人生を、自分の足で歩いている証”なのだと思います。
「次は、自信作の番組ができたら連絡します!」
そう言って笑った田邊さんの姿には、ことばと向き合う仕事への誇りと、和光で育んだ“自分を信じる力”がしっかりと宿っていました。
和光幼稚園→和光小学校→和光中学校→和光高等学校→白百合女子大学文学部フランス語フランス文学科→証券会社
現在、証券会社で法人向けのコンサルティング業務に携わる丹羽さん。
M&A支援や不動産、相続の提案など幅広い分野で企業を支える“何でも屋さん”的な役割を担っています。
「証券会社って株だけじゃないんだって、入ってから知りました(笑)」と笑いながら話す丹羽さん。
その語り口の中には、自分の足で世界を見て、自分の言葉で語る芯の強さがありました。
大学ではフランス語を専攻し、18世紀の文学や移民国家フランスのヒエラルキー構造などを学んでいた丹羽さん。
本来は留学する予定でしたが、フランス同時多発テロの影響で中止に。行くことは叶わなかったものの、「世界で起きることは、誰にとっても他人事じゃない」と強く実感した出来事になりました。
就職活動では、こんなユニークな動機も。
「年収1000万円以上ほしかったんです(笑)。暮らしに余裕がほしくて」
業種にこだわりはなく、さまざまな企業を訪問する中で、証券会社に出会いました。入社試験では、自らの“経験”を語る場面も。
「気になるニュースは?と聞かれて、みんなはトランプ大統領の話をしていたけど、私はフランスのテロと、それにまつわる留学中止・返金トラブルについて話しました。契約書を自分で調べて、返金してもらった経験があったので」
“世の中に起きていることを自分ごととして捉えられるかどうか”
その姿勢が評価されたのかもしれません。
現在は証券会社に入社して5年目。
数字の世界に身を置きながらも、どこか肩の力が抜けたように語る姿が印象的です。
「算数、苦手なんですよ(笑)。計算は遅いです。
でも、お客様の悩みを一緒に考えて、何年越しにでも“解決できた”と思える瞬間が、一番やりがいを感じます」
1年目に出会った法人のお客様と、3年目に契約が結べた経験は、時間がかかっても信頼を積み重ねる大切さを教えてくれたといいます。
採用面接やグループディスカッションでは、和光での経験が自然と活かされたとも。
「自分の主張をすることよりも、“相手の話をどれだけ聞けるか”が大事だと思っています。これは、和光でずっと培ってきた感覚です」
また、“なぜ?”と問い続ける姿勢も、幼い頃から大切にされていたもの。
「算数の答えも、“なぜそうなるのか”まで考えていました。
それが今、社会人としていろんな物事を多面的に考える力につながっていると思います」
大学で初めて“和光の外”に出たとき、女子大学の文化には驚きもあったそう。
「教室で歯を磨くとか(笑)、異性の目を気にしない文化が新鮮で、逆に面白かったです」
一方で、「和光の友だちのあたたかさや自然体の関係性にも改めて気づけた」と語ります。
和光での生活を振り返ると、「家族がもう一つあるような感じでした」とも。
畑や合宿など、教室を超えた体験の中で培われた関係は、今でも続いています。
「今を楽しんでいれば大丈夫。やりたいことがあればやればいいし、なくてもそのうち見つかります」
「保護者の方には、何かあったら“相談相手”になってほしいです。
こう育てたいと思っても、思い通りにはいかないのが子育て(笑)。
でも、信じて見守ってくれていたことに、今はすごく感謝しています」
「小学生の頃から淡々とした印象だったけど、内に秘めた熱を感じた時間でした」と語る副校長・増田先生。
飾らず、まっすぐ、等身大で語る丹羽さんの姿からは、“一人ひとりが自分の足で立って生きている”和光生らしさが伝わってきます。